医療パパのトリセツ

MBA学費を捻出するため「通信費・車代・医療保険」を見直し、教育訓練給付金や学割を検討するブログです

ノンフィクション物語

こんにちは、はるとり(@iryopapa )です。

突然ですが、父が他界しました...

不器用なりに前を向いて走り続けてきたつもりでしたが、振り返ると大切な物に気づかず来てました。

落とし物はもう手に入りませんが、思い出を記録させて下さい。


父の涙

先日一周忌を終え、改めて自分を見つめ直す時間があり、心の隙間は埋まっていないことがわかった。

母が居なくなってから父は一人では広すぎる一軒家にそのまま生活を続け、

「まぁ、ゆっくり遺品整理するよ」

と、いつもの明るい性格のまま私達には振る舞っていた。

本当は辛かったと思う。

母の葬儀で初めて見た父の涙は、最愛の人を失った悲しみと自身への葛藤から流れるものだったのではないかと思う。

そんな喪主の隣に居る私も気丈を作っていたが涙を止めることができなかった。


両親の出会い

父と母は全く別の土地で同じ年に産声をあげたが、お互い30代まで会うこともなく、

たまたま双方の知り合いの知り合い同士が「こんな人いるみたいだよ」と、取り敢えずお見合いすることになったとか。

今に無理やり当てはめれば、「親公認もしくは親同席のコンパ」みたいなものだろうか。

今となっては本当かどうかわからないが、母から聞いていたのは「何回かお見合いしたけど、一番仕事が安定してる人を選んだわ」とか。

恋愛と結婚感は今も昔も同じだなと、今更ながら思う。

お互いの目的が一緒であれば、後は早いもので子作りということで、両親いわく頑張ってやっとお前が出来たと言われた。

実際に2年近く位頑張ったようだ。

そして、念願の息子を授かることになった。

しかし、描いていた家庭は崩れ去ることになる。


口唇口蓋裂

産まれ出てきた私の産声はどんな声だったのだろうか?

私の顔を見たときの母はどんな思いだったのだろうか?

私自身には分かるわけもなく、ただ医療の道へ進んだ私は知識としては十分に知り得ている。

そう私は「口唇口蓋裂」で産まれてきた。

唇が裂けているため母乳を吸う陰圧をキチンとかけれず、また裂けた唇からはヨダレや母乳が出てきたりしたと思う。

乳児の写真はいつも前掛けをしてあり、どれも汚れていたのはそういう理由からなのでは無いかと思う。

このようなことも含め、もしかしたら世間体もあったかもしれない。母は大変苦労しただろうし悩んだのではないか。

「兄弟が欲しい!」と無理なお願いをしていた時期もあったが、

母が居なくなった家で父と何となく振り返る機会があり、また聞いてみた。

父からは「俺は兄弟が多いからそんな家庭を想像していたけど、お母さんはまたお前みたいな子供が産まれるのではないか?と思っていたみたいだ。」

母は私の口唇口蓋裂は自身の責任だと思い続けていたのだと感じた。


青春時代

私は口唇口蓋裂で産まれて社会人になるまで人生に希望が持つことができなかった。

今思えば大したことではないのだが、当時の私には夢がなかった。

3歳までの記憶は無いが数回形成手術を行っている。その経過観察のため長期休みは病院受診が18歳まで続いた。

口蓋裂のため上顎と下顎の発達スピードが違い、また母乳吸引をキチンとできていなかった影響で発生発音が苦手になっていた。

言葉の教室という所に小学校入学まで通い、舌や顔の筋肉の練習を行った。

小学校では容姿から心無い言葉や行動を取るクラスメートが居た。

歯の発達にも大きな影響があり、1ヶ月毎に遠方の歯科口腔外科クリニックに通った。

永久歯がキチンと生え変わりづらく、上下の歯のかみ合わせが上手く行かず、虫歯にもなりやすい口腔環境であった。

歯科クリニックに行くたびに、歯科麻酔とドリルと永久歯を適正な位置にするため歯間にゴムを入れて歯科矯正をすることを高校卒業まで行った。

加えて、歯科矯正の口腔プレートと下顎矯正の帽子を24時間する指示があったが、全力で拒否したのは言うまでもない。

今考えれば、毎回職場の休みを取って連れて行ってくれた両親には感謝しかないが、当時は辛いだけの何事でもなかった。

このような青春時代を過ごし、輝く夢を持つことは当時の私には厳しかった。

寧ろ医学の知識を持ち合わせていなかった当時はこのやり場のない恨みを親に向けていたのは事実である。

知識が増え周りが見える今となっては本当に母親には申し訳ないことをしたと感じる。

同時に母も自身を攻め続けたのではなかろうか。


母としての覚悟

母は5兄妹の次女として農家の家に誕生した。当時は戦後間もない時代のため、物は何も無かった。

母を産んだお婆ちゃんから言わせると、「カムチャッカから逃げてきた時よりから見れば食べ物はある」とのこと。

お婆ちゃんは戦前を経験しており、ソ連が攻めて来て命からがら逃げてきた話や、

そら豆を食べる時は薄皮を口の中で剥いてから実を食べると長く食べれる話など、今では考えられない生活の話をしてくれた。

当時の私はまだ子供だったが、何か大切な事だと興味を持って話を聞いた。

当時の母のおやつと言えば畑の芋だった。「芋ばかりでなくバナナが食べたい!」とワガママを言った話を聞いた。

なけなしのお金でお祖父ちゃんが念願の青いバナナを買ってきてくれ、母が一口食べ吐き出し、不味いと。

まだ熟れてなかったのか、野バナナだったのかわからないがお婆ちゃんのゲンコツが炸裂した話を聞いた。

そう、昔は手に入る食べ物が偏っている性もあったと思うが、母の好き嫌いが強かった話も最近聞いた。

その性もあり母は体が強い方ではなかった。青春時代は結核を患い、当時は隔離されたら最後、もう戻ることは無いとも言われていた時代だった。

母が戻ってきた時は家族みんなビックリしたとのこと。

ともあれ、母が生還して父と出会い私が産まれることになったことは運命を感じる。

母は自分の様に苦労させたくない、私を強く育てる覚悟をした。


思いと歪み

母の妹である叔母さんから「あんたは母さんはスパルタだったねぇ」と良く言われる。

それは生まれ持った物以外では苦労して欲しくない思いが強かったからのようだ。

覚えている?と叔母さんに聞かれるが、良く覚えているのは食卓に出された物は全て食べきらないとならないルール。

母は体力が無く結核に罹り入院生活が長かったが、私にはそのようになって欲しくない思いが食育に通じているようだ。

私は繊維系の食べ物が食べにくく、またほうれん草が何故か飲み込め辛かった。

しかし、目の前の食育の達人は残す事を許すはずも無く、私は口の中に機械的にほうれん草を入れるしか無かった。

想像通りになるが、口の中ではほうれん草ボールが出来上がる。

食育の達人は早く食べなさいと真剣な眼差しで、湯呑を掴んでいる。

今では虐待と捉えられるのではないかな?と思うが、何度かお茶ではっぱをかけられた。

ときには、完食後の褒美ということで目の前に板チョコを置かれたり、食育の達人はあの手この手で私の完食を手伝ってくれた。

そのお陰もあり体は大きく育つことができた。

ただ、母に対する思いは複雑なものであったのは間違い無い。

また、身体の変化も始まっていた...

つづく